順位

名    前

写  真

エピソード

スコア

1
マッキャンベル中佐
(Dabid S.McCampbell)

第二次大戦でのアメリカ海軍でのトップエース。34機の公認撃墜の他に不確実7、地上撃破が21機あり、部下に譲った戦果を加えるとさらに実績は増えるといわれている。しかもこの記録は1944年6月から11月までの約半年で達成され、その時は34歳であった。マッキャンベルは1910年アラバマ州に生まれ、1933年アナポリス海軍兵学校を卒業したが、不況による予算縮小で1年間民間で暮らし、復帰任官後1938年ペンサコラ飛行学校を終わって空母部隊に配属された。空母ワスプで大西洋を行動中に日米開戦を迎え、太平洋に移ったが1942年9月日本潜水艦の雷撃で母艦が沈没、本土に帰還した。1943年9月、VF15長として新鋭空母エセックスに配属され、間もなくAG15長に昇格した。初撃墜は1944年6月11日のマリアナ攻撃で、19日の『マリアナの七面鳥狩り』では2回の出撃で7機を撃墜、その後、硫黄島、パラオ、フィリピン作戦に奮戦する。1944年10月24日には、日本の戦爆連合約100機をハルゼー機動部隊から20nmの海上で味方機7機と迎撃、10分間に個人で9機(他に不確実2)を撃墜している。1944年11月14日本土へ帰還。

34

2
ハリス中佐
(Cecil E.Harris) 

マッキャンベルに次ぐ海軍第2位のエース。1916年サウスダコタ州の農場で生まれ、故郷の師範学校を出て、3年間小学校の先生を努めたのちに、海軍航空隊に入った。1942年ウイングマークを受け取り、大西洋に出たが、1943年に太平洋に移り、ガダルカナル攻防戦においてF4Fで2機を撃墜した。1944年夏、空母イントレピットのVF18に配属されフィリピン、台湾攻撃に参加、1944年11月25日に母艦が神風の命中で大破して戦線を離脱するまでの81日間に22機を撃墜した。本土帰還後F8Fに機種転換中に終戦となり、故郷の小学校へ戻った。ハリスは1位のマッキャンベルのような華々しい話しは少ないが、空戦技術は堅実で、全期間を通じて一度も被弾していない。

24

3
バレンシア少佐
(Eugene A.Valencia)

「芝刈り機」の異名で知られたエースチームの編隊長。カリフォルニアの出身で、1942年4月飛行学校を卒業して少尉に任官、同年末に空母部隊に配属された。初陣は1943年秋のウエーク島攻撃で空母エセックスのVF9に所属してギルバート、ラバウル、トラックと転戦、計7機を撃墜している。1944年始め本土に帰還、4機編隊の空戦法を研究、2チーム練成して1945年始めにレキシントンのVF6(のちヨークタウンに移動)で戦場に復帰した。新編隊戦法は2月の関東空襲で立証され、終戦までに部隊で50機を撃墜、そのうちバレンシアの戦果は16機であった。戦後も海軍に在籍していたが1972年に中佐で病死している。

23

4
ブラシウ少佐
(Alexander Vraciu)

『マリアナの七面鳥狩り』において8分間に360発の射弾で6機の「彗星」艦爆を撃墜して名声をあげたエース。ルーマニア移民の子供としてインディアナに生まれた。1942年に海軍飛行学校を卒業。初撃墜は1943年10月6日のウエーク島上空、その後空母レキシントンの編隊長として、トラック、マリアナを転戦した。1944年12月14日ルソン島攻撃時に被弾降下、ゲリラに救出されアメリカ軍上陸までゲリラを指揮していた。

19

5
ヌーイ中尉
(Cornelius N.Nooy)

写真無し
1921年4月15日生まれ。詳細不明。

19

5
フレミング少佐
(Patrick D.Fleming)

写真無し
1918年1月17日生まれ。1956年2月16日に事故死している。

19

陸奥屋 http://www003.upp.so-net.ne.jp/wowow262/


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