順位

名    前

写  真

エピソード

スコア

1
ボング少佐
(Richard I.Bong)

アメリカの現在における全期間を通じたトップエースである。1920年ウイスコンシン生まれ。州立師範学校を中退して1941年6月陸軍航空隊に入り1942年1月少尉に任官。約半年後に第5空軍に配備され南太平洋にでた。1942年12月27日の初陣で99艦爆、零戦各1機を撃墜(ドボズラ上空)したのち順調にスコアをかさね10日後には、はやくもエースの仲間入りをし、1943年1月に49FGの9FSに移動、4月に中尉、8月に大尉となった。11月の21機目撃墜とともに休暇で本土に帰還。すぐに太平洋戦線にもどり1944年4月12日に28機目を落としたところで再び本土に呼びもでされている(第一次大戦のエース、リッケンバッカ−の記録を抜いたための英雄保護措置)。その後1944年9月に戦線復帰、貴重なトップエースを戦死させないように陸軍からは射撃指導の任務を与えられたが、ボングはこの命令をやぶって自衛の目的で空戦を再会、1944年12月17日に40機目を撃墜したところで再々度の帰還を命じられた。1945年8月6日にP80のテスト飛行中にエンジン故障で墜落、24歳の短い生涯を閉じた。

40

2
マクガイア少佐
(Thomas B.McGuire Jr.) 

トップエースのボングと同じ1920年にニュージャージー州に生まれフロリダで育つ。ジョージア工科大学を終え1941年7月陸軍航空隊に入隊、1942年2月に少尉で任官した。アラスカ勤務を経て1943年3月オーストラリアで編成されたP38装備の475FGの431FSに配属される。1943年8月18日にウエアク上空にて3機撃墜し、同21日に2機撃墜、たちまちエースとなった。その後年末までに撃墜16機に達しボングに5機差まで追い付いたが、1944年になると競争はさらに白熱化12月25、26日のルソン島攻撃で7機を落とし2機差まで迫った。しかし明けて1945年1月7日、ネグロス島上空を哨戒飛行中に挑戦してきた一式戦と四式戦各1機と低空で格闘、飛行第54戦隊の杉本明准尉に撃墜され戦死する。彼は、口やかましいので部下には敬遠されたが、空戦技術には独特の見識を備え、執筆した「南太平洋における空戦技法」は標準的な教本として高く評価されている。しかし、その呆気無い最後は1.増槽を落とす。2.低空を避ける。3.低速を避けるとした彼自身が厳命した鉄則を破ったためで、いささか自身過剰ではなかったかと言われる。(増槽については、故障していたとの記述もある)

38

3
ガブレスキ中佐
(Francis S.Gabreski)

                      
ヨーロッパ上空でのトップエース。1919年ペンシルバニア州生まれ。ノートルダム大学医学部を経て1940年7月航空隊を志願し、翌年45FSに所属、日米開戦をオアフ島のホイラ−飛行場で迎えた。1942年末イギリスへ移動、ポーランド人亡命者で組織された飛行隊に所属し20回出撃している(ポーランド系移民の子供であったため)。1943年アメリカ空軍に移籍、間もなく61FS長(P47装備)となる。空戦法は独特で、一つは「肉薄攻撃」で、撃墜した敵機の破片で翼と風防が破損するほど近くまでよって射弾を送っている。また曳光弾を使用せず、旋回能力を保つために弾薬も規定の半分しか携行しなかったと言われている。1944年7月20日、193回目の出撃時にコブレンツのドイツ軍飛行場を掃射中、プロペラを掩体に引っ掛け不時着、捕虜となった。戦後、釈放され朝鮮戦争では4FIWの副司令としてF86を操縦、6.5機を撃墜している。(第二次大戦では28機+朝鮮で6.5機、合計34.5機であるが、朝鮮戦争の戦果は別とした。)

28

4
R.ジョンソン大尉
(Robert S.Johnson)

一年に91回の出撃で、撃墜28機という、驚異的なスピードでスコアをあげた4位のエース。1920年オクラホマ州に生まれ、高校時代はボクシングとフットボールの名手で知られたスポーツマンであった。飛行学校では射撃の成績が悪く「双発機向き」と評定されたが、熱望がかなって戦闘機に転向、1943年1月、56FGに配属されヨーロッパ戦線に向かった。初空戦は同年4月で、初撃墜は6月13日(Fw190)。その後61FSの編隊長となる。1944年5月、28機の撃墜戦果を土産に本土帰還を命じられた。その後は撃墜戦果はなかったが、戦後のアメリカ空軍の算定で撃墜数を1機減らされている。

27

4
マクドナルド大佐
(Charles H.MacDonald)

1916年ペンシルバニア州生まれ。ルイジアナ州立大学を出て陸軍航空隊に入った。1939年20FGに配属されてハワイに駐屯、日米開戦時、空襲の合間をぬって迎撃に離陸したが撃墜記録はない。1942年末、ニューギニアに出動、348FGついで475FGに所属して転戦、1943年には475FS長に就任した。475FGは第5空軍の精鋭部隊で『地獄の天使』のニックネームを持ち、ボング、マクガイアの両雄を擁し、マクドナルド自身も27機撃墜で3位の座を確保している。しかし、戦後の生活は必ずしも恵まれず30歳前で昇進した大佐のまま1961年アメリカ空軍を退役した。

27

6
プレディ少佐
(George E.Preddy Jr.)

数々の不運ののち、味方の対空砲火に撃墜され戦死したエース。1919年にノースカロライナ州に生まれ、沿岸砲兵から1941年4月陸軍航空隊に入った。1942年訓練中に墜落炎上、かろうじて無事であったものの、以後、不運な事故はついてまわる。49FGに属してP40に搭乗、一度も会敵しないうちに機体が爆発、救助されたが数週間の入院となった。1943年1月ヨーロッパ戦域に移動したが3機目の撃墜時に砲火を受け不時着水している。1944年8月6日にハンブルク上空で6分間の空戦で一挙6機を撃墜、本土帰還休暇後、352FGの328FS長に任命されたプレディーは、1944年12月25日、空戦中敵機を狙った味方対空砲火が直撃、戦死してしまった。総撃墜は25.83機であるがヨーロッパで2機、太平洋で1機の未公認撃墜があると言われている。

25.83

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