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スコア | |||||||||||||||||||||||||||
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劉粋剛 大尉 |
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自称の撃墜記録を認めるとすれば、日中戦争における中国空軍トップエースである。満州の出身で1931年に杭州航空学校に入り1937年8月の開戦時には飛行第5大隊の副隊長の配置にあった。1937年8月21日、揚州において奇襲をかけてきた日本海軍1連空の96中攻吉田小隊3機を部下と共同で全て撃墜(日本海軍の記録と合致)している。続いて9月7日に太湖上空で加賀と鳳翔から発進した艦載機を2機撃墜したと言うが日本の記録が失われているため確認できない。その後撃墜を重ねたが10月の出撃時、墜落死してしまったと言う。しかし自称とは言いながらこの頃の上海や南京方面における日本海軍機の損失も少なく無かったので、彼が相当のスコアを上げたのは間違いない。 |
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柳哲生 大佐 |
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中国空軍での公認のトップエースである。柳哲生は南昌の飛行学校に入学したのち、洛陽、杭州の飛行学校で訓練を受け、中央航校5期生として飛行第4大隊に配属された。1937年8月14日に台湾から来た96中攻1機を共同で撃墜、初陣を飾っている。その後南京、漢口、重慶、成都、蘭州と転戦し撃墜は9機となった。戦後は台北に移り住んでいる。
残りの2機と1/3は共同撃墜の端数だと思われる。 |
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王光復 中尉 |
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1943年〜1945年に活躍したCACWのエースである。すでにこのころ4機撃墜のパイロットであった。活躍としては、1944年9月20日に顎中の羊棲洞にある日本軍集積場を爆撃に行くB-25を護衛し迎撃してきた隼を巧みにとらえ、その一機を撃墜、エースとなった(日本の記録だと撃墜されたのは25戦隊の大元軍曹かニ宮伍長であったという)。その後3機と1/2機のを撃墜している。しかし彼の功績は、地上攻撃にあり、自身も「補給線を破壊すれば日本軍は食料の他は何も補給できない」としたCACWの狙いを忠実に実行している。 |
1/2 |
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高又新 少佐 |
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譚鯤 少佐 |
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