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●1945年4月12日 第一次奄美大島・喜界島空域制空戦闘 さて1945年3月19日の空戦で敗北を喫した343空(2代目)であったが、それ以降の状況はどうであったろうか。まず開隊時第3航空艦隊の指揮下にあったのだが、4月1日に5航艦に編入された。理由は当時作戦が開始された「菊水作戦」の援護の為であったが当然ながら特攻作戦参加ではなく支援、つまり特攻機の前路哨戒を目的とした。(後にB29迎撃もする) 4月8日に司令部が鹿屋(九州鹿児島南端)に移動、第1次特攻隊突撃路制空は4月12日に開始される。AM10:43に戦闘701、301の合計44機が発進、途中で10機が不調の為引き返したが2時間後の12:40あたりに喜界島南方空域に侵入し、そこでアメリカ海軍航空母艦ホーネットのVBF17のF6F群12機を発見し次いで同VF17のF6F群12機、同ベニントンのVF82のF6F群12機、同VFM112のF4U群12機、合計48機と空戦に入った。 戦闘終息は13:15。 帰還したアメリカ海軍(海兵隊)のパイロットの戦果は、VBF17が13機を撃墜、VF17も13機と言うもので、また海兵隊のVFM112は20機(別に撃破6機)の大量撃墜を報告、遅れてきたベニントンのVF82も4機のスコアを主張、総スコアで50機であった(但し、1部に特攻機とその援護機も含まれる、事実97艦攻や零戦もスコアの中に含まれていた)。日本の343空側の報告はF6Fを20機、F4Uを3機の合計23機撃墜(不確実3含む)。 単純戦果比較だとアメリカ軍23機、日本軍50機の損失となるが例によって損失比較で、ある程度正確な結果が出ると思われる。 結論とすれば、日本側の未帰還機は戦闘301が9機、701が1機の合計10機の損失で戦死者は10名。 ●1945年4月16日 第二次喜界島空域制空戦闘 早朝AM6:35に戦闘301が16機、戦闘701が8機、戦闘407が12機の合計36機発進したが途中で3機が引き返したため33機となる(更に1機が引き返した可能性あり)。 戦闘終息はAM8:30 日本の343空の報告では3機撃墜であったが、アメリカ軍の損失は実際は被撃墜ゼロで2機が戦闘以外で失われている。逆に343空の損失は深刻であり戦闘407が6機撃墜され同301も3機が撃墜されて合計9機(うち自爆1機)、戦死者9名であった。 ●1945年5月4日 第三次喜界島空域制空戦闘 記録が少ないため、ほとんどの書籍に第三次制空戦闘は掲載されていないが珍しく343空が優位位置からの戦闘を開始した空戦である。離陸はおおよそAM6:00で戦闘701が12機(推定)、戦闘301が16機、戦闘407が8機。 戦闘407の市村大尉は「(上空待機から攻撃に移った戦闘301をみて)典型的な編隊攻撃で一方的に12機を撃墜・・・・」としているが結果は以下の通りであった。343空の報告では13機撃墜、損失は6機(各飛行隊2機ずつ)、アメリカ軍の戦果報告ではVBF12が10機、VF9が2機を撃墜、損失はゼロ。 損失比較では日本側が6機(6名戦死)、アメリカ側がゼロ(戦死・負傷者なし)・・・・・・・優位位置から攻撃し編隊空戦の御手本のような戦い方であったハズなのだが・・・・・・・・・・。 続く予定 |
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