陸奥屋が『まあ、取り留めの無いお話なぞ(^^;)』を
文章がメチャクチャなのは思ったことをそのまま書いてるからです
m(__)mごめんなさいm(__)m


零式艦上戦闘機初陣記録の真実 (1940年9月13日の空戦)

1940年9月13日、日本海軍新鋭戦闘機の零式艦上戦闘機が空戦デビューした日である。午前8時半に漢口を出撃、同9時半に中継基地の宜昌に着陸し燃料補給・休養のうえ12時に発進。午後1時10分に中攻隊(27機)と合流し20分後の爆撃終了と共に引き返したと見せたが、更に20分後に偵察機の敵機発見の連絡により反転。
午後2時にE15とE16(呼び方は旧日本海軍、中国空軍に従った)合計30機を発見し高度6500mから下方5000mで編隊を組んでいた中国空軍機に襲いかかった。

最近まで日本での出版書籍には、性能的にも勝り優秀な搭乗員の技量にも相まって一方的に27機(書籍によるが30機とも)を撃墜、損害はゼロ(被弾あり)との記録をそのまま掲載しているものが多かった。流石に現在では、これを鵜呑みにする専門雑誌はなく13機撃墜が定着しつつある。
しかしながら、この27〜30機撃墜はどのような経緯で、広まったのであろうか?、また本当に零式艦上戦闘機には損害(被弾以外)なかったのだろうか?。また、搭乗員は全員が撃墜を割り振られている(山下空曹長の5機を筆頭に)が事実か?。

●報告〜部隊として27機撃墜を報告しました、個人に割り振った記憶はありません。

零戦隊は宜昌に次々と帰還、最後の1機(北畠機)が着陸したのが午後4時20分であった。指揮官の進藤大尉は12人を集め戦果の報告を受ける。結果は下表にあるとおり30機撃墜(不確実8機)を主張・・・・しかしながら進藤大尉が上空から見た結果と重複を鑑み「部隊として27機確実撃墜」を報告したと言う。
当然ながら個人には割り振っていない。

●国家主導によるマスコミ操作と不安定な部隊報告

ここで、戦闘詳報告と新聞報道の比較を表にまとめてみた。

名 前 階 級

戦闘詳報告

新聞報道

備   考
進藤三郎大尉 E15×1(確実) 1機 隊長機、最初の一撃でE16(楊夢青大尉)を打ち漏らす。しかしながら後にE15(王廣英中尉機)撃墜。
宜昌帰還時は光増、山谷、平本機と同行。
北畠三郎一空曹 E16×1(確実)
E16×1(不確実)
E15×1(地上撃破)
2機 最初の一撃で最右翼のE16を空中分解させる。
大木芳男二空曹 E16×2(確実)
E15×2(確実)
E15×1(不確実)
4機 最初の一撃でE16指揮官機(楊夢青大尉)を撃墜。
藤原喜平二空曹 E15×2(確実) 1機

-
山下小四郎空曹長 E15×2(確実)
E16×1(確実)
E15×2(末田機共同)
E15×2(地上撃破)
5機

-
末田利行二空曹 E15×3(確実)
E15×2(山下機共同)
E15×2(地上撃破)
1機

-
山谷初政三空曹 E15×3(確実)
E15×1(3機共同)
2機 帰還時は進藤機、光増、平本機と同行。
白根斐夫中尉 無し 1機 E15(王廣英中尉機)を狙ったが進藤機に撃墜され果たせず。脱出した王廣英中尉の落下傘に銃撃。
元内閣書記官白根竹介氏の子息。
光増政之一空曹 E15×2(確実)
E15×1(3機共同)
2機 帰還時は進藤機、山谷、平本機と同行。
岩井勉二空曹 E15×2(確実)
E15×2(不確実)
2機

-
高塚寅一一空曹 E15×1(確実)
E15×2(不確実)
E16×1(不確実)
3機

-
三上一禧二空曹 E15×2(確実)
E16×1(確実)
E15×1(不確実)
2機

-
平本政治三空曹 E15×2(確実)
E15×1(3機共同)
1機 帰還時は進藤、山谷、光増機と同行。

実数は兎も角、指揮官進藤大尉が報告した撃墜内容とマスコミ報道の違いは一目瞭然である。特に目立つ(?)のは白根斐夫中尉のゼロから1機撃墜・・・・さらに元内閣書記官白根竹介氏の子息と言うことであろうか?。あからさまに「大物政治家の御子様ですから花を・・・・」がミエミエである。
この新聞報道が後世の出版書籍の情報源となる。

●さて現実は?

当時の空戦は実際ベテラン自体(難しい言いまわしだが)中国空軍が多かったと言える。零戦隊は半数が空戦経験無しで増加タンクの落し忘れや、落しても燃料コック切り替え忘れが多数であった。この状態では正確な撃墜報告など出来るはずもなく27〜30機撃墜となるわけであるが・・・(非難とか嘘というわけでは無い、絶対優位からでも乱戦になれば無理も無い話だから)。

当時の中国空軍の記録によると第三、四大隊のE15が25機、E16が9機出撃。そのうち33機が空戦に入り13機が撃墜され11機が損傷、搭乗員は10名が戦死、8名が負傷。当然ながら撃墜は報告されていない。また「世界の戦闘機隊〜付エース列伝」(酣燈社)によれば本隊の指揮官が入院中であったのは悲劇であった。

●零戦隊の損失

被弾は、大木、藤原、高塚、三上機が被弾。機体損失は無かったとの書籍が多数であるが、実際は宜昌着陸時に高塚機が脚不良(運用当初から指摘はされていたが被弾との兼ね合いも考えられる)により不時着大破。実数は損失1機であった(非難を受ければ困るので言い訳だが空戦損失はゼロ)。

●結論

中国側も認めているが、日本海軍の戦果は13機撃墜、11機撃破。日本海軍は空戦以外で1機損失


陸奥屋 http://www003.upp.so-net.ne.jp/wowow262/

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