撃墜数はフランス軍方式を基準としましたので、
資料によっては異なる記述があります。ご了承下さい

順位

名    前

写  真

エピソード
スコア

1
クロステルマン
Pierre-H.Clostermann

クロステルマンは1921年外交官の一人息子としてブラジルで生まれ、アメリカ留学中にパイロットの資格をとった。1942年ブラジルからイギリスに渡り軍曹として自由フランス空軍に参加している。初撃墜は1943年7月27日でFw190を2機撃墜。ノルマンディー作戦後急速にスコアをのばしている。戦後、イギリス、フランス、アメリカ、ベルギーから勲章をもらい下院議員に選出。1948年に刊行された体験記『Le Grand Cirque』(邦訳名「撃墜王」)は50万部を超えるベストセラーとなった。クロステルマンのスコアは33機がフランス空軍に公認されているが(不確実や共同撃墜も1機としている)、イギリス空軍方式では23機、または19機とする見解もある。

33

2
アルベール
Marcel Albert 

1917年生まれ。1938年7月に下士官パイロットの資格を得て翌年の大戦の開始で戦闘機隊に入りD520に乗って1940年5月から6月25日の休戦までGCI/3に所属して2機を撃墜している。休戦中にジブラルタルへ脱出し1942年11月28日ソ連に移動。そこでYak9を与えられ、ノルマンディー連隊第一大隊の編隊長となって活躍した。出撃数192回、撃墜数23機で、フランスとソ連から勲章を受けている。

23

3
デモゼ−
Jean F.J.Demozay

                     
モルノーの別名でも知られ、1916年ナントに生まれた。1936年空軍に入ったが、英語が話せたので連絡将校としてイギリス空軍に勤務、フランス壊滅後にイギリス本土に移った。イギリス空軍に所属し訓練中の1940年11月8日にJu88を撃墜している。その後1941年夏までに5機を撃墜、1942年には第91飛行隊に所属し合計18機撃墜、機雷敷設艦撃沈などの戦果をあげ少佐に進級した。大戦後半は自由フランス空軍用の飛行学校を開設したり、地上攻撃隊の指揮にあたり、最終的に23機を撃墜していた。終戦後の1945年12月19日に事故で死亡している。

23

4
ル.グローン
Pierre M.Le Gloan

1913年ブルターニュ生まれ。1931年に空軍に入る。開戦時は第6飛行隊に配属されていてMS406に搭乗、11月にDo17を2機撃墜している。その後イタリア参戦のためツーロン港へ移動、防空戦で目覚ましい活躍をする、中でも1940年6月15日にD520に乗ってイタリア空軍のCR42を4機、BR20を1機撃墜、1回の出撃で5機を撃墜した唯一のフランスパイロットとして名声をはせた。休戦後は親独政権空軍に加盟し北アフリカ等でハリケーンなど7機を撃墜したが、1943年にド・ゴール政権側に移り連合軍に復帰している。1943年9月11日、P39に搭乗し船団護衛中にエンジン不調となり基地に不時着したが機体が爆発、不運な死をとげた。確実撃墜は18機でドイツ機4機、イタリア機7機、イギリス機7機という前代未聞のバラエティーにとんだものだった。

21

5
デルフィーノ
Louis Delfino

フランス戦で10機、ノルマンディーニーメン部隊で6機。その他不確実が2機で合計18機撃墜。

18

5
ソヴァージュ
Roger Sauvage

1940年の対ドイツ戦ではCGI/16に所属して戦い2機を撃墜。1944年にノルマンディー.ニーメン部隊に配属され10月14日にYak3に搭乗しFw190を撃墜、16日にJu87を2機、27日にFw190を撃墜するなど戦争後半にめざましい活躍をしている。

18

5
ドウラポップ
Roland De La Poype

RAFで1機、ノルマンディーニーメン部隊で15機。不確実2機で合計18機。

18

ドウラポップRoland De La PoypeとデルフィーノLouis Delfinoの写真はyoshikaiさんより頂きました。有難うございました。


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