アドルフ=ガランド中将
Adolf Galland

1912年ウェストファーレンのヴェスターホルト生れというから メルダースより1歳年長である。スペイン内乱にJG88の第3中隊長として参戦,1937年から38年にかけて旧式のHe51で主として地上攻撃に活躍した。ポーランド侵攻でもII/LG2の中隊長として襲撃機に乗って戦ったが,フランスヘの電撃戦でJG27の本部付(戦闘機隊に移るために「リューマチにより開放式風防機体(Hs123)の搭乗は無理」との偽診断書を知り合いの医師に書かせた逸話がある)となってBf109Eに乗りかえ,たちまち頭角を呪わし,またたく間に13機を撃墜した。ついでJG26の大隊長を経て,40年8月JG26の司令に昇進した。「英国の戦い」ではメルダース,ヴィック(56機,戦死)とスコアを競い,9月25日には40機撃墜に達した。その後もガラントとメルダースとの撃墜競争はき,41年6月21日に剣樫葉付騎士鉄十字章をもらった時には68機のメルダースを1機上回っていた。しかし,独ソ戦開始とともにメルダースは東部に去り,弱兵のソ連機を大量に落とし,抜きかえす。だが,ガランドも西部戦線で奮戦して,42年1月28日94機撃墜に到達してダイヤモンド剣樫葉付鉄十字章を授けられ,事故死したメルダースの後任として戦闘機総監に任命された。「英国の戦い」の最中にゲーリングに何か欲しいものは? と聞かれて,「スピットフアイアを下さい」と答えた率直な一面を持つガランドは,常に部下の戦闘機パイロットの側に立って発言したため上層部と衝突し,ついに45年1月罷免され,Me262を使うJV44を編成し,空戦生活に戻った。この部隊で100機撃墜に達したが,4月下旬負傷して再起しないまま敗戦を迎えた。著書「始まりと終わり」とドイツ戦闘機隊の興亡を描いた名著である。出撃425回で総撃墜数104機の全部が米英機である。1996年2月、83歳で逝去。


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