エーリッヒ=ハルトマン少佐
Erich Hartmann

1922年ヴュルテソベルクのヴァイルで生まれたハルトマンは,医師である父の勤務の関係から数年を中国ですごし後,スツットガルトに戻って成長した。母が軽飛行機を操縦したこともあって,幼少から飛行機にあこがれ,14歳でグライダーの免許を取った。1940年空軍に入り,操縦訓練課程を終わって少尉に任官,42年10月コーカサスの7.JG52に着任し,早くも11月5日19回目の出撃で初戦果をあげた。その後E・Pママソ曹長(93機),H・ダマース軍曹(113機),A・グリスラフスキ少尉(133機),J・ツヴェルネマン中尉(126機),W・クルピンスキー中尉(197機)などの僚機をつとめて腕を唐き,翌43年3月24日68回目の出撃で5機目を撃墜してエースの列に入った。そして編隊長に進んで,43年7月5日に始まったクルスクの戦いで一挙にスコアを伸ばした。すなわち,初日に4回の出撃で4機,2日後には3機のTl2を含む7機を撃墜するという活躍ぷりで,月末には計41機となった。8月には1日7機撃墜を1回,1日5機撃墜を3回で,49機を撃墜している。この間8月20日には敵戦線内に不時着して捕虜となったが,数時間後に脱走した。9月には行方不明となったB・コルツ少尉(113機)の後をついで9./JG52の中隊長となり,20日にはエアラコプラを撃墜して100機目を記録,さらに10月末148機に達したところで騎士鉄十字章を受け,12月13日に150機撃墜を果たした。1944年も快調で,2月4日までに33機を落とし,3月2日には1日10枚撃墜と累計200機撃墜の2つの記録を作る。4月にヒトラー自身の手から樫葉付騎士鉄十字章を授けられ,5月には24機を撃墜しているが,この月には整備員2人を乗せてクリミア半島から撤退している。6月1日には5月下旬をこ続いてプロェスチ油田を襲った米第15空軍を要撃してP−51型6機を撃墜した。7月初めに239機で樫葉剣付騎士鉄十字牽を夜戦の撃墜王シュナウファーと共に受け,7月から8月にかけての4週間をこ78機を落として史上4人目の250機撃墜を達成,8月24日にはついに史上初の300機撃墜に達した。特に291機から301機目までは8月24日中こ3回の出撃で記録したものである。ハルトマン中尉は翌日ヒトラ-に呼ばれてダイヤモンド剣樫葉付騎士鉄十字章をもらい,ついでにかねてから婚約していたウルシュラ・ペッチと結婚した。その後も撃墜のペ一スは落ちず,大尉に進級したのちI/JG52の大隊長に転任した11月だけで25機を撃墜している。45年3月にMe262の転換教育を受けたが古巣に戻り、4月4日に350機目を撃墜。そして5月8日に352機を落とした時点で敗戦をを迎えた。ハルトマンは童顔のため仲間から“プービ”(赤ん坊)と愛称されていたが,常に直戴的で,冷静な状況判断,近距離からの正確な射撃をモットーとし,ソ連軍からは「ウクライナの黒い悪魔」と呼ばれ恐怖の的になった。また16回の被撃墜,不時着を経験しているが,一度も負傷せず,800回以上の戦闘出撃で僚機を1人も失っていない。戦後は1955年までソ連に抑留されたが,帰国後新生ドイツ空軍に加わった。1957年にアメリカのアリゾナ州にてジェット機の操縦訓練を受け、1958年にはオルデンブルグの第10戦闘学校の副校長に就任、1959〜1962年までJG71「リヒトフォーフェン」の司令官に就任(1960年に中佐となった)、1962年にはケルン近くのポルツヴァーンの幕僚司令部に戦術評価専門家として転属した。しかし西ドイツ空軍主力戦闘機選定時にF104スターファイターに関し大胆な発言を行った為、上司とうまくいかなくなり1973年に退役するまで将官に進級出来なかった。1993年9月20日に没。71歳であった。


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