※ハンガリー空軍のスコアに関しては資料により多大な違いがありますが上位エースは順位の差はあれ変わらないものと考えられます※

順位

名  前

写  真

エピソード

スコア

1

セントジョルジ少尉
Dezso Szentryorgyi

ハンガリー空軍のトップエース。1942年末イタリア製Re2000で5/I航空群に属して東部戦線に出動したが戦果はなかった。1943年春にドイツのBf109が供給されると撃墜第1号を記録、なんとそれは味方のドイツ空軍He111爆撃機であった(理由があり、ハンガリー軍がソ連から占領したばかりの飛行場をドイツ空軍が連絡ミスより爆撃したため、やむおえず攻撃)。1943年末までにエースの座に付き、1944年夏には本土防空に従事、B24型4機を含む5機を撃墜、最終的に34機のエースとなった。最終階級は少尉。戦後は戦犯として投獄されたが釈放された後、民間航空会社のパイロットに転じた、1971年に航空事故で死亡。別資料で32.5機の記録あり。

34

2

デブロ−ディ大尉
Gyogy Debrody szauados

1942年6月に空軍士官学校を卒業し少尉で任官、同年に5/I航空群に属して東部戦線に配属。しばらく戦果に恵まれなかったが、乗機をRe2000からBf109に改編してから1943年7月5日のLa5の撃墜、同年8月までに6機のスコアを持つエースとなった。引き続き15機までスコアを伸ばしていた1944年2月1日、ソ連空軍のYak9の攻撃で撃墜され不時着、僚機のケニエレス中尉(スコア19機?)が近くに着陸し狭いコクピットに押し込み救出されたエピソードを持つ。1944年6月より本土防空にて初めてアメリカ軍機と対峙し戦果を加えたが同年11月16日にソ連空軍Yak9と正面で撃ち合い腹部を負傷、退院後に大尉に昇進、161/4中隊長となったが、その後の戦果はなかった。戦後はドイツで旅客機パイロットとなったのち、アメリカへ移住。出撃回数204回、総撃墜数はアメリカ陸軍機6機を含む26機(共同1機、未確認1機を含む)。

26

2

モールノー中尉
Laszlo Molnar

1944年8月7日戦死。ソ連機18機、アメリカ機7機(共同も含む?)。下記トート中尉が3位とする書籍がある。

26

4

トート中尉
Lajos Toth

26機撃墜の資料もある。戦後投獄され1951年6月11日処刑。

24

5

ケニエレス中尉
Mikos Kenyeres

写真無し(no photograph)
1944年2月撃墜され捕虜。18機とする資料もある。

19

6

フォビーオン軍曹
Istvan Fabian

101/2FS所属。1943年6月〜1945年3月までに公認16.5機、不確実6機のスコアを記録との資料もある。

13

6

ポッチョンディ大尉

一時、エーリッヒ・ハルトマン(ドイツ空軍352機撃墜)の僚機。

13

8

モルノシ中尉
Ferenc Malnasy

1944年10月〜1945年3月までに公認11機の資料あり。1945年3月21日、Fw58連絡機を操縦中、アメリカ陸軍P38に攻撃され死亡。

12

8

カールマーン准尉

1944年9月〜1945年3月までに12機撃墜。

12

10

モリーク中尉
Jozsef Malik

スコア10.5機の記述もある。1945年4月16日ラッフェルディンク飛行場にてP51の地上銃撃に会い死亡。

10


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