順位

名    前

写  真

エピソード

スコア

6
プラハム中佐
(JobnR.D.Braham)

英空軍双発戦闘機隊のトップエースで,DSO,DFC勲章各3回を受けたジョン・R・D・プラハムは,1920年ェーボン州パスに牧師の息子として生まれ,1937年12月,英空軍に入隊した。戦闘機を志望して29飛行隊に配属されたが,双発戦闘機と分かって当初は失望,転属を願い出たという。開戦時にはブリストル・プレニムIF型で夜戦勤務に付いていたがこのころはレーダーがなかったので戦果は少なく.プラハムがHelllを初撃墜したのは1940年8月24日であった。9月からブリストル・ボーファイターに機種変換を開始し,41年3月13日にDo17を,同年末までにさらにHelll型3機を撃墜し.実戦配置を離れた。この前後に機上レーダー手として元ダソス・バソド・ドラマーの“ステック”グレゴリー,ユダヤ人の“ジャッコー”ヤコプとペアを組んだ。翌42年7月,原隊に飛行小隊長/少佐として復帰,たちまち4機を撃墜して,11月に22歳の若さで中佐へ昇進,141飛行隊長に就任した。部隊は6月にドイツ夜戦機のレーダーを探知する電子扱器を装備して,英夜間爆撃機隊の護衛に当たることになった。プラハムは10月に再度実戦配直を離れるまでに撃墜計20機(うち夜間19)に達し,カニソガムの記録と並ぷ。44年2月,第2戦術空軍第2グループで夜間作戦担当となったが,スタッフ勤務の間をぬってデハビラソド・モスキートを駆って敵地上空に昼間単機出撃し,3月と4月の2か月でHe177を含む7機を撃墜,さらに5月にJu88,Fw190を撃墜したが,BflO9と地上砲火で被弾,海上に降下,救出された。Dデイ後に飛行を再開したが,44年6月25日,デンマーク上空でJGlのエースであるR・スプレクレスのFw190に撃墜されて捕虜となり,29機撃墜(うち夜間19)のまま終戦を迎えた。戦後の1952年5月に英空軍を除隊してカナダ空軍へ移った。

29

6
タック中佐
(Robert R.S.Tuch)

「ラッキー・タック」(幸運のタック)と呼ばれたロバート・R・S・タックは2度の空中衝突,4度の被撃墜,虫の知らせで爆死を免れるなどかずかずの幸運に恵れ,計29機撃墜の第一級エースとして名声を残した。タックは1916年、ロンドン近郊のキャットフォードで生まれ,16歳で商船に乗り組んだが,途中で方向を変え,1935年9月英空軍に入隊した。飛行訓練を終了したのち少尉に任官,グロスター・グラジェーター戦闘機装備の65飛行隊に配属されたが,38年に2回も空中衝突を体験,この時の傷痕をかくすため口ひげを事えるょうになったという。第2次大戦に入ってから2年目の40年5月、スピットフアイア装備の92飛行隊に小隊長として転属,初陣である5月23日のダンケルクからの撤収支援において,2度の出撃でBflO9型1、BfllO型2機を、翌日Do17型2機を撃墜,2日間の空戦でエースとなり、故郷へ「世界でもっともすはらしい職業は戦闘機パイロットです」と書いたという。6月2日もHelll,BflO9各1機を撃墜するなど戦果を重ねた。バトル・オブ・ブリテンでは被弾してコーンウォリス卿の荘園近くに落下傘降下して,卿のバスで汚れを落とし,「いつでも風呂においで,若いの」と言われて帰隊するエピソードを残した。同年9月,クックはハリケーン装備の257飛行隊長に任命され,同隊との初出撃の15日にBfllO撃墜,翌41年6月にもBflO9と空戦,負傷しながら2機を撃墜した。このときも北海に降下,救出されている。その翌月にはダックスフォード基地の航空団司令に昇進したが,10月に英空軍エースを代表してアメリカを訪問,帰国後にビギソヒル基地の航空団司令へ転じた。総撃墜数は29機に達したが,42年1月28日,北フランスで地上攻撃中に対空砲火で撃墜され,捕虜となった。しかし,45年1月脱走に成功、 ソ連軍に救出されて英本国へ帰った。叙勲はDSO,DFC3回、DFC(米)などで,身なりにも気を使うエースだった。

29

8
コールドウエル大佐
(CliveR.Caldwell)

オーストラリア出身者のトップェースであるクライブ・R・コールドウェルは,1910年シドニーで生まれ,1938年に民間飛行クラブで3.5時間の訓練により単独操縦に進んだというから晩学に属する。39年分月第2次大戦の勃発を見てオーストラリア空軍(RAAF)に志願し,41年少尉に任官した。この時コールドウェルはすでに30歳だったが,それでも戦闘機パイロットに採用されたのは並々でない技能が見込まれたためであった。すぐに中東へ派遣され,トマホーク装備の英空軍250飛行隊へ配属されたが,コールドウェルが戦果をあげるのは北アフリカ戦線に転じてからで,41年6月26日にBflO9を初撃墜したのを始めとして年末までに18機を撃墜して,“キラー”の愛称を獲得した。このなかには12月5日のJu87型5機撃墜という記録もふくまれている。翌42年1月、カーチス・キティホーク装備の英空軍112飛行隊隊長に任命され,5月末に英本国と米国経由で帰国を命じられるまでにさらにBflO9型1.5機,MC202型1機のスコアを追加した。9月に帰国して大歓迎を受けたコールドウェルは,11月にスピットフアイア3コ飛行隊
で構成される豪州空軍第11舵空団司令に任命され 翌43年1月中佐に昇進して,ダーウィン地区に展開,対日航空戦にのぞんだ。同年3月2日における日本海軍202航空隊の零戦との初空戦から9月28日に第一線を去るまでコールドウエルはゼロ戦,100式司偵,1式戦など8機撃墜を加え,総撃墜数ほ28.5機に達した。その後,教官勤務を経て,44年4月モロタイ島を中心とする航空作戦に従事したが,空戦の機会はなかった。この間の44年8月大佐に進級,46年2月に空軍を退き,戦後は実業家として成功した。

28.5

9
カーリー大佐
(Frank R.Carey)

コックニー・エース,すなわちロンドンの下町っ子エースと称されるフランク・R・カーリーは,1912年ロンドソ市南西部の労働者街であるブリクストンに生まれた。早くから飛行士にあこがれ,15歳の時,整備員として英
空軍に入隊し,見習い3年,戦闘機隊の整備員3年を経て整備学校で1年学んだのち,飛行訓練を受けて,1935年に念願のパイロットに転じ,9月に43飛行隊へ配属された。大戦勃発直後の40年1月30日,ハリケーンに搭乗したカーリー軍曹は僚放と共同でHelllを撃破,さらに13日後の2月12日に同型機を共同撃墜してDFC勲章をもら
い,少尉に特進して3飛行隊に移った。5月,部隊とともにフランスヘ渡り,5月15日に撃墜したDo17の後方射手に返り討ちされるまで,計9親筆墜を記卑して英本土へ帰った。ついで,43飛行隊に小隊長として転属,7月以後のバトル・オプ・ブリテンでは8月18日の空戦で負傷入院するまでBflO9型1,BfllO型1,Ju87型3,Ju88型2の計7機を撃墜する健闘ぶりを見せた。負傷回復後にしばらく教官を務めたのち,少佐へ昇進したカーリーは1941年8月,ハリケーン装備で新設された135飛行隊隊長に昇進,年末に隊を率いて極東のビルマに移動した。そして,翌年1月末から米義勇空軍と共にラングーソ防空に当たり,29日に97戦1機を撃墜したのを手始めに,2月26日には1式戦3機を撃墜して計5機に達した。3月上旬にも僚機とともにモールメソ飛行場へ果敢ななぐりこみをかけ3機を葬っている。インドヘ後退したのち,チッタゴンを根拠に日本空軍と戦ったが,43年夏訓練部隊へ移った。これまでの公式記録や飛行日誌は失われたため正確なスコアは不明だが,チッタゴン時代の1機を含み10機と推定されている。絵撃墜数は28機だが,一説には40機に近いともいう。叙勲はDFC3回,DFMなど。1961年に空軍を退役,オーストラリアへ移住した。

28+

10
デューク少佐
(Neville F.Duke)

アフリカ空戦場の連合国側トップェースとして知られるネビル・F・デュークほ,1922年ケソト州のトソブリッジに生まれ,1940年6月英空軍に入隊,翌41年3月任官してスピットフアイア装備の92飛行隊に配属された。6月25日BflO9を撃墜したのが初戦果で,“セイラー”マランの列機として薫陶を受けが,10月末には北アフリカ戦線へ転属命令を受け,11月にトマホーク装備の112飛行隊へ移った。そして11月22日から44年9月までに26.8機を撃墜,この間に小隊長,145飛行隊隊長と昇進し,チュニジアからイタリア本土へと転戦,デュ−クも3度撃墜されたが幸運にもそのたぴに帰還した。44年10月英本土へ帰ると.ホーカー社へテスト・パイロットとして派遣され,その線で戦後の1948年6月空軍を退いて,同社のテスト・パイロットとして活躍,ハンター機で53年9月7日世界速度記録を更新している。出撃486回,総撃墜数28.8機,叙勲はDSO,DFC2回。

27.9

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