順位

名    前

写  真

エピソード

スコア

1
西沢広義中尉

大正9年、長野県生まれ。高等小学校卒業後、生糸工場に勤めていたが予科練の募集広告を見て応募合格した。昭和11年6月乙種飛行予科練習生第7期に採用され、修了後、大分空、大村空、鈴鹿空を経て16年10月、千歳空に配属された。昭和17年2月にラバウル配属(四空)となり、2月3日には、早くも初撃墜を記録、その後、4月に台南空に配属となりラバウルを中心とするソロモン戦線で活躍、公認スコアは30機に達した。同年8月7日にはガダルカナル上空で一挙にF4Fを6機撃墜するなど活躍が続き、11月に本土帰還となっている。昭和18年5月、二五一空(台南空の改称)とともに再び敗色濃いラバウルに進出、10月に再度本土帰還がなるまで個人撃墜36機をマークしているが、その後、部隊が個人記録を認めなくなったため正確なデータは無い。帰還後二〇三空に11月に配属され厚木空より千島防空に転じた。昭和19年11月にルソンに進出、25日にはマバラカット飛行場より関行雄大尉率いる神風特別攻撃隊直奄に出撃、F6Fを1機撃墜後不時着した。26日にマバラカット飛行場に輸送機に乗って帰還する最中、ミンドロ島上空で撃墜され戦死した。
西沢のスコアに関しては、新聞報道によると150機以上、西沢が家族へ送った手紙には147機、あるいは102機(最近まで定説のスコア)と言う記録もあるが、二五三空の岡本飛行隊長に西沢本人が語った話しとして86機が伝えられるため、これに最後の1機を加え87機が最も信用できるスコアと思われる。

87

2
岩本徹三中尉

大正5年島根県生まれ。農林学校を卒業後、昭和9年6月に呉海兵団に水兵として入団、翌10年に整備兵となった。さらに第34期操縦課程をうけて11年12月に卒業し、13年2月、第一二航空隊に配属され中国戦線に進出した。2月25日の南昌上空での初空戦で5機を撃墜、9月に帰還するまでに総計14機のスコアをあげた。太平洋戦争では瑞鶴に配属、ハワイ作戦、珊瑚海海戦を経てラバウルに進出、戦果を重ね、終戦まで生き延びた。戦後の生活は恵まれず、昭和30年代に病死した。岩本のスコアも正確には算定できないが、家族への手紙では202機、資料によっては100機以上となっている。想定とはなるが、ここでは、80機前後の撃墜説を採用する。

80?

3
杉田庄一少尉

大正13年、新潟県生まれ。農学校を中退して昭和15年海軍に志願兵で入隊し昭和17年3月丙種三期を卒業して二◯四空に配属された。同年秋、ソロモン戦線ブイン基地を中心に活躍し、昭和18年4月18日にはブインに向かう山本五十六大将の護衛機6機に加わっている。昭和19年に二六三空、二◯一空を経て本土に帰還、20年1月、四三三空の三◯一飛行隊に配属され新鋭「紫電改」で本土上空迎撃戦で活躍しているが同年4月15日、鹿屋基地より離陸するさいアメリカ艦上機の奇襲を受け戦死した。軍発表によると「個人撃墜70機」となってるが、そのまま採用した。

70?

4
坂井三郎中尉

自己伝記「大空のサムライ」で世界的に有名な零戦撃墜王。大正5年佐賀県生まれ、昭和8年佐世保海兵団に水兵として入団。昭和12年第38期操縦生を卒業して、中国戦線で一二空に配属、昭和16年10月台南空に配属され開戦とともにフィリピン、蘭印で活躍、17年4月からラバウル、ラエに進出しスコアを重ねた。しかし同年8月7日に負傷し本土に帰還。回復後、横須賀空、大村に配属されたが19年6月硫黄島に進出し同島陥落直前に本土の三四三空に転じて教官となった。

64

5
奥村武雄飛曹長

大正9年、福井県生まれ。昭和10年呉海兵団に入団、13年に第42期操縦練習課程を終えて15年3月、一四空に配属された。初陣は昭和15年10月7日の昆明空襲で、その時に4機を撃墜している。昭和17年7月からソロモン戦線に出動、台南空に属して14機の撃墜が公認されている。また18年9月14日には一日で10機を撃墜(ブイン上空)しているが9月22日に空戦中に行方不明となり戦死とされた。

54

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