1918年南ドイツ・バーデソのガケナウに生まれた。1936年歩兵として陸軍士官学校に入ったが,翌年空軍に転属し,1939年末操縦教育を終えてJG52に少尉として配属された。40年5月12日フランス上空の空戦でホーク75Aを撃墜して初戦果を記録した。ついで「英国の戦い」に参加し,中隊長に昇進した。クレタ島攻防戦,ブルガリア駐屯を経て,独ソ戦が始まると戦果は急に増してゆき,36機に達したが,11月28日に撃墜されて不時着し,背骨を3か所で折り,下半身が一時麻痺した。しかし,わずか9か月でこの重傷から回復して,42年8月には第一線に戻り,コーカサス戦に参加してスコアを伸ばした。9月には早くも65機に達して騎士鉄十字章を授けられ,10月下旬には100機目を撃墜して樫葉付騎士鉄十字章をもらった。翌43年4月にハルトマンなどエースの多い第III大隊の隊長となった。クルスク会戦が始まると,7月4日に大隊として2500機を,9月19日に3000機撃墜を記録するとともに,個人戦果も順調に伸ばし8月9日に175機,20日後には全軍で3人目の200機撃墜に達した。さらに少佐に進級して,11月28日にはノヴォトニーに次いで2人目の250機撃墜を記録した。しかし,44年3月ドイツ本国のII/JGl1の隊長に移ると,5月12日に負傷して11月まで入院したこともあってスコアは止まり,敗戦をJG300の司令で迎えた。ラルは631回(700回以上とも言われている)の出撃で275機(第3位、そのうち戦闘機が241機),うち3機だけが西部戦場の戦果である。見越射撃(defrection shooting)の名手として知られているが,彼自身も8回撃墜されている。戦後ドイツ空軍に入り,中将まで昇進,1975年に退役した。 |