順位

名    前

写  真

エピソード

スコア

1
コジェドゥープ大尉
(Ivan N.Kozhedub)

1920年6月8日ウクライナのオプラジェーイェフカ付の貧農の家に生まれ,40年化学・工業技術専門学校卒業と同時に空軍に入隊した。動機は北米長距離飛行を敢行した著名な飛行士ワレーリー・P・チカロフにあこがれた
ためと言われ,大戦中の彼の愛枚にほチカロフの名前が書かれていたという。41年ハリコフ南東のチュグーイエフ操縦士官学校を卒業、第一線に配属される予定であったが、抜群の成績を高く評価され教官として残った。彼自身は再三前線行きを希望したが2年間は戦闘機パイロットの養成にあたっている。43年3月,やっと念願の戦闘枚隊へ転属が許された。配属部隊は同年2月にLaGG3
からLa−5に改変されたはかりの第240戦闘機連隊(予備軍)で,初陣は3月26日であったが戦果はなく,危うく落とされるところだった。43年6月同部隊はクルスク大会戦に参加するため第16航空軍に編入され,7月6日
Ju87編隊と空戦して,初めての撃墜戦果をあげた。この夏,キエフ上空で10日間に11機を撃墜し,8か月のうちに20機の戦果をあげて44年2月4日,最初のソ連邦英雄称号を授けられた。その後,第176親衛戦闘機連隊
(Yak−7)の副連隊長に転出し,44年8月19日に2回目のソ連邦英准となった時にはすでにエース第2位(45機)の座につき,年末に57機,45年2月12日にほポクルイシキンと並んで59横目を撃墜した。以後ベルリン攻略戦まで活躍し,45年2月15日には初めて戦線に登場したMe262ジェット戦闘機1機を撃墜した(ソ連空軍で唯一の記録)。4月19日の戦果を最後に終戦までに330回の出撃(空戦120回)で62機撃墜の最高記最を樹立,3
たびソ連邦英雄の栄誉に輝いた。1950年最年少(30歳)で航空兵少将に昇進,70年航空兵大将,85年航空兵元帥に進級。空軍戦闘訓練部長第一代理を経て,国防省査察官となった。

62

2
ポクルイシキソ大佐
(Aleksandr I.Pokryshkin)

コジェドゥープにつぐ第2位のエース。1913年2月21日シベリアのノヴォシビルスクに生まれ,32年に空軍へ入隊するまでは錠前工をしながら民間飛行クラブで操縦を習った。33年ペルミ航空整備学校に進んだのち,39年スクーリングラードのカチャ操縦学校を卒業し戦闘機隊に配属された。独ソ開戦時には,ウクライナの第55戦闘機で小隊長を勤め開戦翌日の41年6月23日にはBflO9El機を初めて撃墜した。7月20日の偵察飛行では対空砲火
を浴びて敵中に不時着し,3昼夜もかかって原隊に戻った。その後も何度か撃墜されながら次々と戦果を重ね,有数のエースとして名声を確立する。彼の乗機は,イ16に始まってヤク,ミグ,ラグの各型から米国供
与のP−39エアラコブラまで多岐にわたったが,これらの多機種を乗り回すうちに独自の空戦法をあみ出した。特に垂直面での空戦にすぐれ,「高度一速度一運動一発射!」という一連の動作で数々の戦果をあげた。大戦全期間に600回出撃し,156回の空戦で59機を撃墜(うちP−39で48機),なかでも43年春のクバン地区での空戦では20機撃墜を記録した。44年5月,第16親衛戦闘機連隊長から第9親衛戦闘機師団長に昇格したが,Yak−9に搭乗して,陣頭指揮をとりながら,レチカーロフ,グリンカ,クルーボフなど多くのエースを育てあげ,部下から30名ものソ連邦英雄を出した。彼自身も,コジェドゥープと並んで3回もソ連邦英雄称号を受け,連合軍の各種勲章をもらった。終戦まぎわに首位を譲ったが,長くトップエースの座を占め,ソ連空軍を代表するエースとしてドイツ空軍の間でも著名だった。戦後,国土防空軍の要職を歴任し,68〜71年の3年間同軍総司令官第一代理をつとめた。72年1月,青年軍事教育組織のDOSAAF中央委員会議長に就任し,同年11月杭空兵元帥
に進級。81年末退任後,国防省査察官として後退の指導にあたったが,85年11月13日惜しまれながら他界。

59

3
レチカーロフ大尉
(Gigorii A.Rechkalov)

ソ連空軍第3位のエース。
1920年2月9日スヴェルドロフスク州フジャコヴォ村(現ザイコヴォ付)に生まれ,民間飛行クラブを経て38年空軍に入隊。39年ペルミ操縦学枚を卒業して,戦闘機パイロットとなる。開戦時にはポクルイシキンと同じ第55戦闘機連隊に所属し,以後常に彼の上空援護機として行動を共にした。開戦直後は1日6回も出撃する乱戦だったが,キシニョフ上空でJu88を撃墜したのが初戦果だった。まもなく負傷して後退を命じられたが,辞退して前線にとどまる。43〜44年第16親衛戦闘機連隊の小隊長,中隊長をつとめ,44年6月〜45年2月には同連隊の副連隊長と連隊長を歴任。45年2月第6新衛戦闘機軍団の操縦技術担当査察官に栄転し,終戦に至る。空戦法をポクルイシキソから学び,とくにクバンの空戦で19機撃墜の戦果をあげ,その後も各戦線で活躍。終戦までに450回出撃し,122回の空戦で58機(一説には56機)を撃墜(うちP−39で44機),1回の出撃で4枚を撃墜
したこともある。最後の撃墜をベルリン上空で記録したことが物語るように,開戦から終戦の日まで戦いつづけて生きのこった数少ないエースであった。ソ連邦英雄称号を2回授与され,戦後は,空軍の部隊長を歴任し,
1957年航空兵少将に進級,59年予備役縮入。

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4
グラーイェフ大尉
(Nikolai D.Gulayev)

1918年2月26日ロストフ州アクサイスカヤ村で生。38年空軍に入隊し,40年スクーリングラード舵空士官学校を卒業。開戦時には第27戦闘機連隊に所属し,43年まで同連隊の小隊長,副中隊長,中隊長をつとめ,44年第129親衛戦闘機連隊中隊長に転出。スターリングラード,ヴォロネジ,クルスク,ウクライナなどの各戦線で活躍。特にクルスク大会戦では,ドイツ軍の部隊配置と
移動を偵察する重要な飛行任務を遂行すると共に空中戦で13機撃墜の戦果をあげ,ソ連邦英飯となる。その後の戦闘でも32機を落とし,2回目のソ連邦英雄に輝いた。撃墜総数57機(うちP−39で36機)。戦後,防空戦闘機隊の部隊長を歴任し,72年航空兵大将に進級。76年夏頃まで国土防空軍の戦闘訓練担当総司令官代理をつとめていたが,79年予備役編入,85年9月病死した

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5
イェフスチグネーイェフ大尉
(Kirill A.Yevstigneyev)

1917年2月4日クルガン州ホフルイ村の貧農の家に生れる。38年赤軍に入隊し,41年アルタイ地方ピースクの空軍操縦学校を卒業した後も同校に残り,独ソ戦半ばまで飛行教官をつとめていた。
43年3月前線に初めて派遣され,第240戦闘機連隊の小隊長,中隊長,副連隊長を歴任(大戦末期は大尉,第178親商戦闘機連隊中隊長)。第240連隊には同じく飛行教官から遅れて参戦したコジェドゥープがおり,良きライバルであった。全部で紛300回出撃し,120回の空戦で53機撃墜(別に共同撃墜3機)。特にドニュプル作戦では大活躍して,43年10月の1か月間に9回の空戦で12機撃墜の戦果をあげた。戦後,空軍大学,参謀本部大学で高等教育を受け,空軍指揮・幕僚幹部を歴任。66年航空兵少将,72年10月予備役編入。

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