順位

名    前

写  真

エピソード
スコア

6
グリンカ大尉
(Dmitrii B.Glinka)

1917年11月27日ドニエプロペトロフスク州アレクサンドル・ダル村の炭坑実の家に生まれ,37年赤軍に入隊,39年スターリソグラードのカチャ軍航空学校を卒業。独ソ戦には42年4月から参加し,クリミア上空で初戦果をあげ,さらに∫u88型3機を撃墜した空戦で返討ちにあい墜落,負傷したが,エースの座についた。
その後クバン,クルスク,ハリコフ,サンドミール,ヤースイ,ドイツの各地を転戦 この間第45戦闘機連隊の小隊長,第16親衛戦闘機連隊付,第100親衛戦闘機連隊長補佐などを歴任し,中佐に昇進した。
終戦までに紛300回出撃し,90回以上の空戦で撃墜総数50機を記録,うち27機はP−39による戦果だった。特にクバンの戦闘(43年4〜6月)では兄のポリスとともに快心の働きを見せ,2人で31機(兄が21機,弟が10
機)の戦果を達成,兄弟で1日に爆撃機7機を葬ったこともあった。ともにソ連邦英雄の称号を受け,兄弟エー
スとして有名になった。弟のドミトリーはその後クルスク大会戦でも活躍し,2度目のソ連邦英雄となった。なお,兄ポリスの撃墜総数は30機とされている。
ドミトリー・グリンカは戦後,戦闘機連隊長,戦闘機師団長代理を歴任(51年大佐に進級),60年以降予備役に入り,1979年に死去した。

50

6
クルーボフ大尉
(Aleksandr F.Klubov)

1918年1月18日ヴォロゴド州ヤルノヴォ村の貧農の家に生まれ,35年レニングラードの工業学校を卒業後,旋盤工として働く。39年赤軍入隊。40年チュグーイェフ航空士官学校を卒業し,ザカフカス地方の戦闘機隊に勤務。開戦時には,対独正面の第10戦闘機連隊に属し,小隊長と中隊長をつとめた。その後,第16親衛戦闘機連隊に移り,ポクルイシキンの指導を受けてからめきめきと腕前をあげ,トップ・クラスのエースとなる。44年初期にヤッシー方面で5日に9機を撃墜する戦果をあげ,4月13日初めてソ連邦英雄の称号を投与されたが,同年11月1日リヴオフ近郊の前線飛行場で着陸事故を起こし悲劇的な最後を遂げた(死後,2度目の英雄称号を受ける)。戦死までに457回出撃し,95回の空戦で50機を撃墜した。最終階級は大尉,当時の職名は第16親衛戦闘機連隊長補佐。

50

8
ピリペンコ大尉
(Pilipenko.Ivan Markovich)

写真無し

詳細不明

48

9
ヴォロジェイキソ少佐
(Arsenii V.Vorozheikin)

1912年10月15日貌ゴーリキー州のプロコフイエヴォ村の農家に生まれ,31〜33年赤軍に勤務。34年再入隊し,37年空軍操縦学校を卒業。39〜41年飛行中隊政治委員を兼ねた戦闘機パイロットとしてノモソハン事件,ソ・フィン戦争に参加した。とくにノモソハンでは
10回の空戦で6機を撃墜,その回想記は翻訳され,日本にも紹介された。独ソ戦には42年8月から加入,第728戦闘機連隊中隊長,次いで第32親衛戦闘機連隊副連隊長としてカリーニソ,ヴォロネジ,ウクライナなどで活薩し,2度にわたりソ連邦英雄となる。44年8月までに300回出撃,90回以上の空戦で46機を撃墜した。44年10月より前線航空部隊戦闘訓練本部上級操縦教官をつ
とめ,後進の指導にあたった。戦後,連隊長,師団長,黒海艦隊防空司令官第一代理を歴任。1954年航空兵少将に進級,57年予備役編入。

46

9
コルドウノフ大尉
(Koldunov. Aleksander Ivanovich)

写真無し
1923年9月20日生まれ。1977年航空兵元帥。1984年上級元帥、後に防空軍総司令官。

46


女性のエース

順位

名    前

写  真

エピソード

スコア

1
リトヴャク中尉
(Lidiya V.Litvyak)

第586連隊の一員であるリディヤ・リトヴヤクは1921年,線路工夫の娘としてモスクワで生まれた。16歳の時
飛行クラブに入って4時間で単独飛行に移る才能を見たた。41年秋ラスコワの呼びかけに応じて空軍を志願,念
願かなって戦闘機パイロットになると,訓練中に教官を追いつめる腕の良さを見せた。42年9月親衛73連隊に転属してスターリングラード戦線に身を投じ,Yak−9でHelllを撃墜したのが初戦果だった。
空中では男まさりの彼女も,地上では金髪,色白で整った顔だちの,小柄でもの静かな女性だった。そこで僚友はリディヤをリリア(ロシア語で百合の意)と呼び,事実彼女はYak−1の機首に白い百合の花を措いていた。
42年末までに5機撃墜を記録して世界で最初の女佐エースとなったリディヤは,2回撃墜されたが,いずれも生還し,20機以上のドイツ空軍エースと一騎打ちして撃墜したのち対面するなど,劇的なエピソードを残してい
る。その間にエースの編隊長アレクセイ・ソロマチン大尉と恋仲になり,結婚の約束を交わしたが,空戦は熾烈を極め,リディヤの目の前でアレクセイは事故を起こし墜死した。それから問もない43年8月1日,迎撃に出
動したリディヤは全弾を射ち尽くし,8機のドイツ磯に追われているのを僚機に見られたのち未帰還となった。墜落した残骸は発見されたが遺体は見つからなかった。撃墜記録は12機でストップしたが,隊員達はリディヤの
死をうけ入れようとはせず,終戦まで夜の点呼の時はいつもリディヤの名を呼んだという。

12

2
ブダノワ中尉
(Ekaterina V.Budanova)

イェカテリーナ(カーチヤ)・ブダノワが参加したのは,戦闘機隊(第586連隊)で,操縦桿の軽いことからYak−1を使用機とし,のちにはYak−9,Yak−3も使用した。5か月の訓練を終えると,リトヴャク,プダノワらは1942年春のサラトフを振り出しにロストフ,ドンバスなど中部ロシア地区の防空戦に転戦した。9月親友のリトヴャクとともに第73連隊に転属してスクーリングラード戦線にも出撃,戦果を重ねた。しかし,リトヴャクにつづいて2位の女性ェースとなったブダノワも,11機撃墜のあと43年7月18日に戦死した。Fw190を2機撃墜したあと,燃えながら不時着を試み,滑走中に爆弾孔につっこんで爆発したのである。死後にソ連邦英雄の称号を授けられた。ブダノワの生いたちや個人的なエピソードは残念ながらほとんど知られていない。可憐な美人リトヴャクとはルームメイトで仲がよかったが,ボーイッシュな印象もあってロマンスもなく,引き立て役に終始した。

11

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